頂への道・算数編~前編~

記事の日付:2019/07/05

『真の「頂」をめざすαクラスの指導の本質と精神』

最難関選抜Sクラス統括責任者・Sαクラス算数担当 鳥居 輝良

頂への道・算数編 『真の「頂」をめざすαクラスの指導の本質と精神』

 過日、「教育フォーラム」の一環として「頂への道・算数編」が開催されました。
教育フォーラムとは、お子さまを見守られる保護者の方々に中学受験に関して広く情報や知識を提供する場で、ご家庭での今後の取り組みに、またさまざまな局面でご判断の際にその一助となればと実施するものです。
今回は、灘・東大寺学園・洛南高附属などの最難関中学をめざす算数学習について、能開センター最難関クラスで算数指導を担当する鳥居が講演いたしました。これをWeb報告としてお届けします。

最難関選抜Sαクラスとは

鳥居

 こんにちは。今日は「最難関選抜Sクラス」、とりわけ「αクラス」での指導、またその指導スタンスについてお話ししていきたいと思います。

 誤解されがちなのですが、αクラスは実は灘受験クラスでも男子クラスでもありません。ただ、男子の最終在籍者は全員灘中を受験しています。また、女子は少数ながらもしっかりと在籍し、それぞれの志望に応じて洛南高附属中や西大和学園中に合格しています。

つまり、男女を問わず最難関中合格をめざすクラスだということには間違いありません。ただ、それに尽きるものでもありません。本日はそのあたりをお伝えできればと思います。

1.私たちのめざすもの

①.目標

鳥居

 私たちαクラスの目標は2つあると思っています。
1つ目は今も申しました、めいめいが志望する最難関中に合格してもらうことであり、そのための力をつけることです。能開センターは進学塾であり、それを期待されてお子さまをお預けいただいているのですから、当然のことです。

 しかしそれだけでよいのでしょうか?

 時折、「こんなことを先生にお聞きしてもよいのかしら…」と受験以外のご相談をお受けすることがありますが、そんな時、やや複雑な思いでお話を伺います。私たちも教育者の端くれです。人を育てるということが本来の仕事だと認識しています。受験を通して人を育てる、これは能開センターの教育理念でもあります。

 私たちは、受験を超えて真に賢い、知的好奇心と向上心に満ち、上限を設けず自分を磨き続けることができ、そして自分の目標や夢に向かって全力を尽くせる、そういう人を育てたいと思っています。

②.向上心の原動力

鳥居

 私たちの指導は個別指導ではありません。クラス、集団、仲間の存在がやはり子どもたちの向上心の原動力にとなります。集団指導にデメリットがないわけではありませんが、メリットの方が大きいと考えています。その最たるものが仲間たち同士による相互刺激です。競い合えるライバルという関係ばかりでなく、自分にはない考え方や感じ方に気づかせてくれる存在が身近にいることであり、また苦しい時には心の支えともなってくれる仲間たちでもあります。

 もちろん言うまでもなく、子どもたちを集めて競わせさえすればこういったことが実現できるということではありません。経験に裏打ちされた周到な場の最適化、環境のコントロールが必要です。相互刺激を切磋琢磨として活かせるかどうかは、やはり指導者の質にかかっているのではないかと思います。

 このクラスは大阪・上本町校において、同じ志を持つ精鋭たちが集結するスタイルで開講しています。遠方となりご不便をかけてしまうケースもあるのですが、これは知らず知らずのうちにお山の大将となりがちな、地元では実現できない環境を作り出すためです。ご容赦ください。

 迎える私たちは子どもたちの知的好奇心を満たす授業の提供を心してめざしています。私自身の算数では、単に問題を解くのではなく算数や数学の美しさをたくさん見せたい、またその美しさを愛でる感性を育みたいと願って万全の準備をしています。

 このような環境や授業のもと、めいめいが上限を設けず、もっともっと自分を磨きたいと思えるクラスを実現させていきたいと考えます。どんなに成績上位でも、上には上の世界があります。まさに、自分に上限を設けないことが本当の向上心なのです。

③.私たちの育み方

鳥居

 私たちの指導の方法論についてですが、意味のある「遠回り」をあえてさせたいと考えています。
つまり、単に問題を解くためだけの「近道」は教えないということです。問題を解く途上、そのプロセスにおいて、自分の力だけで局面を突破していける力、自立して進路を切り開ける力を自ら養ってほしいと考えます。

 実際、たとえば灘中の入試問題は多くの「解き方」を知っていても、それだけでは対応できません。入試本番のその場で、自分独りで考え、判断できる力が必ず必要となるのです。ですから、手取り足取りの、解答に導くだけの安直な指導はいたしません。かえって真の学力を伸ばす芽を摘むことにつながります。果たして、どちらが本当の意味での“面倒見の良さ”でしょうか?

 もちろん、何もしないわけではありません。常に見守り、そうすべきタイミングでは手を差し伸べ、的確なフォローを行います。しかし、失敗でしか学べない貴重なことも数多くあります。だからこそ、過程においてはしっかりと失敗経験をあえてしてもらいます。

 大事なことは見守る側がそれを恐れないことではないでしょうか?

 大人の仕事は子どもの成長をあせらずきちんと待つことではないかと思う次第です。私は一番良い待ち方ができるよう、常に腐心しているつもりです。“サービスが良くないクラス”と言われてしまうかもしれませんが(笑)。

④.私たちの考えるゴール

鳥居

 私たちの業界では「中学受験はゴールではなく通過点だ」という言い方をよくしますが、本当にそういう指導ができているのでしょうか?
 よくよく自戒しなければなりません。社会全体の動きの中で、また人生全体の中で見れば、中学受験は当然ながら「すべて」ではありません。まさに通過点です。ですから、合格のためのミクロの指導とともに、そういうマクロの視点から中学受験とは何かと考えることも必要だと思うのです。

 たとえば、合格のために算数の「知識」を効率的に詰め込む、数学を先取りする。こういったことは後になれば結局何も残らず意味がないのです。むしろ、算数を通じて「知恵」を磨くこと、今なすべきことはそういうことではないでしょうか? 私は子どもたちによく言います、「人生の中で今の君たちの頭脳が一番活性化している、知恵が働いているのだよ」と。

 時間をかければ、あるいは大人になれば得られる知識や経験とは違い、そういう形ではカバーできないのが知恵であり、考える力です。これを磨く絶好の機会が中学受験ではないでしょうか? 知識よりも知恵を重視する、もしかしたらこれは価値観かもしれません。押し付けるつもりはありませんが、私たちは中学受験合格のためだけの知識教育ではなく、生涯に活かせる知恵を磨き、そのために「考える」ことを重視した指導を行いたいと思うのです。

2.真なる賢さ

 さて、初めに申し上げました「真に賢い」ですが、それはどういうことなのか、というお話に進みます。ここからは算数中心のお話になるかもしれません。

①.思考

鳥居

 まず、「考える」ということについてです。
「しっかり考えて解きなさい」などとよく言いますが、そもそも考えるということ、あるいは思考力とはどういうものなのでしょうか?
 「考えなさい」と言いますと、子どもたちは問題をにらみつけ、必死になって考えています。しかし、本人たちは「考えている」つもりなのですが、それは「思考」と呼べるレベルのプロセスではない場合がほとんどです。
もっとも、かく言う私もそれがどういうことかを十分にわかっているということではなく、この問題に今も向き合ってその探究を日々続けているところではあります。

 子どもたちには常日頃から、もっと考えるということに目を向けるように努めてほしいと思います。たとえば、これは多くは大人ですが、雨上がりにそれまで差していた傘を手に持ち、あるいはカバンの間に差し入れ、とがった部分を後方へ勢いよく突きさすようにして歩いている人を見かけます。その人は別に後ろに歩く人を傷つけるつもりでそうしているわけではないでしょう。ただ、そんなふうにしているとどういうことが起こり得るかという想像力が欠如していますよね。つまり、考えていないのです。

 また、電車で、あえてではなく何気なく奥に入らず入り口付近に立ち止まっている人たちも、自分の目の前しか見えていません。順に少しずつ奥に詰めれば、自分も楽になるのにそうせず、その結果、いつしか奥は空いているのにそのあたりだけ身動きがとれないほどぎゅうぎゅうに混んでいるということがありますよね。これも、よく考えて行動することができていない例です。

 こんなふうに、「考える」ということは学習の場だけのものではなく、何でもない日常生活の中で自分がどう考え、どう行動しているかという習慣につながっているのです。「先を読む」という思考は考えることの1つです。周りの人や状況に想像力を働かせ、自分の考えを展開して、人やものの動きとその先を組み立て、その上で今とるべき最適行動を判断する力です。それが算数での「考える力」にも当然つながっていくのです。

②.ひらめきの裏側

鳥居

 算数ができる・できないを決めるのは、生まれつきのひらめきやセンスのあるなしだと言われたりします。確かに天才的なひらめきを持つ人はいます。
しかしその人も意識していないだけで、ひらめきの裏側にはそれを生み出す土台や根拠が必ずあるのです。
だから、その土台を自分の中で築き上げられれば、「ひらめき」はかなりの部分、後天的に得られるはずです。

 たとえば、ある図形問題があります。解き方の説明をします。「うんうん、なるほど。そういうことか」と子どもたちはすらすらと理解できます。しかしオーディエンス(=聞き手)としての優秀さと、プレイヤー(=解き手)としての優秀さとは違うものなのです。いくら聞いてわかって、できる気になっても、それがそのまま「解ける」ということにはなりません。そこには深い溝があり、そこを飛び越える跳躍が必要なのです。

 とりあげた問題で解くカギとなったのは「相似する2つの三角形」への着目でした。なぜそこに目が行ったのか? その根拠は? それは「ものの見方」というほかありません。これを自然にできるのがひらめきです。この「暗黙知」の裏側を探るため、意識的な行動として考え直してみます。すると、「解くためには相似比が必要」→「どこかにカギとなる相似の三角形はないか」→「それを狙いとした探索行動」→「2つの三角形の発見」という流れが見えてきます。

 よく、「狙いのない補助線を引くな」と言います。苦しまぎれではなく、「こうしたい」という狙い、意図を持って引くことが大切です。目的や理由があって結果があります。アイデアもでたらめに見つかるものではなく、根拠や狙いがあっての行動の結果であり、そういう意味で必然的なものなのです。

③.忍ばす想い

鳥居

 クラスでの算数テキストはすべて私が作成しています。クラスで何を学んでほしいかは、その構成の中に忍ばせてあります。
たとえば「○○算」というテーマがあります。その解き方を学ぶということもあるのですが、それは言わば表面的なテーマです。
実は、そこに並べてある問題を解くことを通して、ある「ものの見方」を学んでほしいという、もう1つの深いテーマがあるのです。

 だから、初めはこれらの問題はいったいどういう構成・つながりなのだろうかと思うことがあるかもしれません。でも、やがてある考え方で根っこではつながっていることがわかり、「なるほど」と納得できるはずです。力を磨くには、自分の持てるものだけでなく、先人の経験から学ぶことも大事な要素なのだと思います。

 たとえば、ある問題で問われていることを「◯◯と××が等しくなるということ」と言い換えて考えると、話が単純化され、新たな展望が開けることがあります。そんな発想、ものの見方はいくら参考書などをみても書いてありません。着眼点と言いますか、解き方のバックボーンとなっている考え方が学べるようにテキストは組み立ててあります。そういう意図や狙いを意識しながら、1問1問を大事にして学んでいってほしいと考えているのです。

 また、別の学びの一例をご紹介します。表向きのテーマは「速さ」です。子どもたちはどうもうまく解けません。後で解説を聞くとできない問題ではなかったのに、どうして解けなかったのか? それが自分たちにも腑に落ちません。授業の最後に改めて問います。「今日のテーマは?」「速さ」「もっと深い部分では?」。しばらくして「グラフや情景図を描かないで解く問題」。

 確かにその通りなのです。そういう解き方が適さないタイプの速さの問題ばかり集めました。問題は先入観なのです。「速さの問題」だというと、子どもたちはダイヤグラムや情景図で解くものだと短絡し、別の解き方など探らずに思考停止してしまいます。ところが、それらの問題はことごとくダイヤグラムや情景図がうまく働かない。だから解けなかったのです。

 ダイヤグラムや情景図を描くのは、それ自体が「目的」なのではなく、解決のための「手段」の1つなのです。言うまでもなく、目的があっての手段であり、絶対的に有効な手段などありません。特定の手段にこだわるのは、言わば「考えていない」ことの証左です。解決のためにいかなる手段が最適かを、先入観なしでフラットな見方で判断できるようにならなくては!、ということを学んでもらいたかったのです。つまり、この回は「手段と目的を履き違えないこと」というのが忍ばせた真のテーマだったというわけです。

④.本質を知る

鳥居

 1つ1つの問題を解く中で、何をつかんでいくのか。
単なる解き方ではなく、その本質、エッセンスは何であり、どう身につけるのか。宿題をただ済ませるのではなく、このことをどれだけ意識して進められるか。
それが「点」の経験を「線」の経験につなげていけるかどうかの分かれ道です。
生きた学び、つまり学んだことが自分のものとして使えるかどうか、ここでその差がつきます。

後編へつづく

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