特別編 教育フォーラム「国語最適学習法」~前編

記事の日付:2014/12/19

この記事は 2014年12月19日 に書かれたものです。
現在は状況が異なる可能性があります。

 

『正しい読み方・学び方で国語文章問題の得点を伸ばす』~前編
国語科主任:露口 和男

露口 和男・国語科主任が語る“合格指南”

特別編教育フォーラム「国語最適学習法」

正しい読み方・学び方で
国語文章問題の得点を
伸ばす ~前編~

能開センターでは、中学受験をお考えの保護者の方々向けに「教育フォーラム」を開催しております。
今回の「リーダーズインタビュー」は特別編として、「国語最適学習法」についてお話しました国語科主任・露口和男の講演を掲載いたします。

国語科主任

露口 和男

最難関クラスの国語指導を長年担当し、灘・東大寺学園中などに合格者を輩出。受験生へ用意周到、合理的な方法論による対策指導を行う一方、当意即妙に受け答えし3・4年生を楽しく導くエキスパートでもある。また、時代の潮流に鋭敏で、“情報戦”をリードする「入試情報室」責任者を兼務。博識で知られ、その博覧強記ぶりは書籍からIT情報、世情、クラシック音楽への造詣にまで及び、軽妙洒脱な話術で雑学トリビアを披露し周囲の人を楽しませることも。

1.どう学習すればよいのかがわかりにくいのが国語。それはなぜなのでしょう?

「国語」の目的は“文章を読む力”をつけることではない?

 小学校6年間で5645コマの授業が行われ、そのうち1461コマ(平成20年 文部科学省告示 小学校学習指導要領より)が国語の授業です。これは算数や理科よりも多く、全体の約4分の1の時間、小学生たちは国語を学んでいるわけです。なのに、ご指摘のように一番学習法がわかりにくいと言われているのが国語です。

 文部科学省の資料で「これからの時代に求められる国語力」というものがあります。これによりますと、「国語力の中核」とは「考える力(論理的思考力)、感じる力(情緒力)、想像する力(イメージ力)、表す力(表現力)」の4つです。意外にも、ここには“文章読解力”などは出てきません。

 もちろん、説明・論説文などを通じて論理的思考「力」を、物語文・随筆などを通じて他者の気持ちを理解できる情緒「力」を、詩や韻文などを通じてイメージ「力」を、作文などを通じて表現「力」を育成しようということでしょうが、文章の読解そのものは国語の目的ではなく、あくまでそのための手段・方法と定義されているのです。

 つくば言語技術研究所の三森ゆりか先生によれば、日本の国語教育の内容は諸外国の母語教育と比較すると“特異”だそうです。他国では「言語技術(Language Arts)」を磨くこと自体が大きな目的となっているのです。これは母語によって世界基準(グローバル・スタンダード)の言語スキルである言語技術を獲得しようというものです。

 この言語技術は、ギリシァ・ローマで始まった7科のリベラル・アーツのうち、文法学・論理学・修辞学を出発点とし、世界の多くの国々の母語教育の根幹をなしています。

 このようなことを踏まえながら考えますと、国語の学習法のあいまいさは子どもたちのせいではなく、むしろこれまでの国語指導法にあるのだと言わざるを得ません。漢字・文法などの言語知識問題を除いては他科目とは違い、再現性の乏しい文章問題への対応力をどう育むのか。これは、国語指導法の最大課題だと思います。

 国語の試験に用いられている素材文を考えてみてください。テキストで学習したものと同じ素材文は出題されません。言語知識問題を除いては、初見の素材文に接し、投題される設問に解答することを、子どもたちは出題者から要求されるのがふつうです。

 演習後に「再度解いて、間違い直し」をすれば、“経験値”とでも言うべき「学習機会度」は確かに上がります。しかし、試験においていつも未読の素材文が出題されるということになれば、このやり方だけでは十分ではありません。

 だから、「やり直しをやっているのに(学習機会度を上げているのに)、どうして得点にむすびつかないのだろう? 国語の勉強方法がわからない…」という発言につながっていくわけです。

文章問題は「ただ解いて間違い直し」では力はつかない

 そこで能開センターでは、この捉えどころがないとされる国語力を、文脈的理解(認知処理力)、言語的理解(言語処理力)、全体像心理学(ゲシュタルト心理学Gestalt Psychology)などに分解し、蓄積・習熟可能な知識や技法として指導するようにしています。

 国語問題で要求される読解スキルや設問・解答形式、そしてコード(code暗号)読解を分析・整理し、それらへの対応の系統的学習を可能とした能開ゼミのテキスト群を始め、各難関中学の入試問題をデータに基づいて徹底的に構造分析した「入試分析・合格対策講座」という冊子の制作もこうした一環です。

 ビジネススキルに「P-D-C-A」というフレーム・ワークがあります。Plan(計画)、Do(実行)、Check(チェック)、Act(行動)です。国語学習にあてはめますと、素材文をどのように認知し、どう取り組むかがP、投題された設問に解答することがDです。そして、答え合わせと反省がC、それに基づき同じ間違いをしないための改善行動がAです。

 国語の学習法がわからないと言う子にはまずPがありません。そうだからこそ、Dがあいまいになり、CやAが単なる間違い直しに留まるのです。国語では、申しましたように同じ問題はまず出題されません。ですから、単なる間違い直しでは次への改善にはつながらないのです。

 こうして、いくら学習しても国語は成績が上がらない、ということになります。この空回りを断ち切り、ギアチェンジして前進するように、蓄積・習熟可能な国語力として学習していくことが必要なのです。

2.文学的文章には、どうアプローチしていけばよいのでしょう?

物語文では、人の気持ちは心情語でストレートに吐き出されない

 国語の素材文は、文学的文章と論理的文章に大別されます。そのどちらでもそうなのですが、文章読解、文脈理解において最も重要なのは「P-D-C-A」のPを決定づける“思想”です。つまり、どういう観点で文章を読んでいくのか、具体的に何が終了すれば、「物語文を読めた」と認定してもよい段階に到達するのか、の認知をどこまで具体的に持ち合わせているかという問題意識です。

 文学的文章とは主に物語文です。これは文部科学省の言う「情緒力」を磨く手段であり、異文化コミュニケーションや他者理解を支える力です。人の気持ちをどうつかむかですが、内面が成長するにつれ、人はしだいにそれをあからさまには他者に話さないようになります。物語文における表現もそうなのです。

 たとえば、少年スポーツを題材にしたある物語文で、「キャプテンに対して、無性に腹が立った」なら、怒りの心情がストレートに描写されていますが、多くは「キャプテンのロッカーを思いっきり けとばして帰った」などと描かれます。直接の心情が隠されてしまうのです。この「描写(態度行動・セリフ・表情・たとえ・情景)」から心情を読み取るのが物語文だと言えます。

 小学生では、内面の成長に差があるのでしょう、この心情の理解では男女差が大きく出ます。また、現実に他者の気持ちを読み取るような機会はまだまだ少ないですし、さまざまな感情をリアルに体験することも多くはないでしょうから、読書などで疑似体験することでこれらを補うことも大切です。

心情を問う因果問題「心情理由」のメカニズムを探る

 心情理解を文章読解の問題として考えてみましょう。テストや入試で頻出の「心情理由」問題のメカニズムを探ります。「○○さんはなぜ ~ したのですか?」というできごとと心情の因果関係を問う形式の問題です。

その子はきのう、お誕生日のプレゼントに赤い雨傘を買ってもらいました。ゆうべ、その子はその傘をだいてベッドに入りました。目が覚めると、よく晴れた気持ちのよい朝でした。その子は外に出てその傘をさしました。

問い なぜその子は晴れた朝に傘をさしたのですか。

 もし、“物語文の流れをどう読み、何をどう答えればよいか”という観点(P)を持っていなければ、「解答者のあなたはどう思いますか?」という問いだとの錯覚に陥って、的外れな答えを出すことになりかねません。

 子どもが腕組みして考えている風であっても、観点(P)をもって思考しているとは限りません。「何を考えているの?」の問いかけに、観点をもって考えている子なら「心情はわからないけれど、できごとは文中にあるはずだからそれを探している」等の返答をするでしょう。しかし、もし観点をもっていなければ、何かわからないけど、問われているあたりにただ目をやっているのにすぎないかもしれません。

 さて、先ほどの「心情は隠されている」を思い出してください。「なぜ晴れた朝に傘をさしたのか」はこの隠された心情に基づいているのです。ですから、物語文の心情をめぐる文脈はこうなります。「事情→できごと→【心情】→描写」です。

 ここに事柄を代入しますと、「事情:誕生日のプレゼントに→できごと:雨傘を買ってもらった→【心情】だから→描写:晴れた朝に傘をさす」。では、表現されていない「心情」とはどんな気持ちなのかです。「うれしくて、さしてみたかった」ですね。

解答 誕生日のプレゼントに雨傘を買ってもらいうれしくて、さしてみたかったから。

 「事情→できごと→【心情】→描写」の流れを、矢印とは逆にさかのぼって理由を探っていることにご注意ください。こういうメカニズムをした文脈として、物語文を読むという観点があらかじめ求められているのです。

 最後の「描写」、ここに傍線部が引かれることが多く、隠された心情の手がかりとなる部分なのですが、さまざまな描写パターンがあります。この問題では「晴れた朝に傘をさす」という「行動」でした。他には、登場人物の「態度」「表情」「セリフ」などがあります。また、心情が投影された「情景」として描写されることもあります。

 では、なぜ人の気持ちは心情語でストレートに吐き出されないのでしょうか。アリストテレス(『弁論術』第二巻)は、人間の感情を、怒り・緩和・友愛・憎しみ・恐れ・大胆・羞恥・憐憫・義憤・妬み・競争心に総括し、それぞれの感情を定義して、人がその感情を持つときの精神状態、その感情を引き起こす原因、その感情が向けられる相手などを説いています。

 しかし、人の感情というものはモノトーンなものではありません。「筆舌に尽くしがたい」と言いますが、感情を100%表現できる「単語」などあるのでしょうか。言葉に限界があるからこそ、レトリックという技術が存在するのです。

 作家の大江健三郎さんは『広辞苑』を3冊ボロボロにするほど、お読みになったそうです。昔の作家、学者さんは、皆、そうして辞書を読んで多くの言葉を自分のものにし、その人なりの表現を確立していったようです。その中で練成されていったのがさまざまな文章表現なのです。

西大和学園中入試:「心情語を使わずに気持ちを描写しなさい」

 以前、西大和学園中学の入試でいま申し上げた「心情表現のメカニズム」の理解度をはっきりと問う出題がされたことがありました。芥川龍之介の『トロッコ』という小説の一部を材料に、物語の続きの場面を100字で作文させる問題なのですが、条件が3つ付加されていました。そのポイントはこうです。

1) 心情語を使ってはいけない。
2) 心情描写として「情景」を書く。
3) 心情描写として「行動」を書く。

 つまり、人物の気持ちを「心情語」で直接表現せずに「情景」と「行動」だけで描きなさいという課題で、この問題の正解には心情表現のメカニズムへの理解が必須だったのです。この理解がなければ、何をどうすればよいか対応不可能だったでしょう。

 物語文の読み方の中心軸が人物の心情理解にあり、それは「事情→できごと→【心情】→描写」の文脈で描かれているということは、ほぼ普遍的なことです。だから読解技術としてこの読み方に習熟する必要があるし、あらゆるテストや入試においてこの文脈に沿って出題されるというわけなのです。

物語を読むフレーム・ワーク(観点)複雑な心情、時間の流れ

 以上述べてきましたように、表のような心情表現のメカニズムをよく理解した上で、物語全体をどう読解していくかが重要です。物語にはさまざまな情報があふれています。よく「まず重要な情報を抽出し…」と言ったりしますが、実はPlanなくしてこれはできません。つまり、「読解の観点」を明確にすることで、初めて「読み取るべきもの」も明確になるのです。

 しかもこのフレーム・ワークは単調・単層かというと、そうではなく複雑・多層構造を持ち合わせています。人の心というのは、一つのできごとに対して、どんな場合でも一つの気持ちだけでいっぱいになっているとは限りません。

 人前でほめられたときに、うれしいけれど照れくさい気持ちになったり、小学校の卒業式を前にして、新しい中学生活への期待に胸をふくらませたりする一方で、仲が良い友達と離ればなれになるのを悲しんだりということもあります。表中の「心情」が「複数」というのはこのような状態と符合します。

 たとえば、次のようなものです。

  • 喜び+悲しみ
  • 喜び+さびしさ
  • 期待+不安(→緊張)
  • 残念+満足
  • がっかり+安心
  • 安心+ひょうしぬけ
  • 悲しい+我慢する
  • こわい+強がる
  • 喜び+感謝
  • 悲しみ+怒り
  • 解放感+達成感+充実感

 一方、単層ではあるものの、要求される心情語の水準が上がると、解釈する難度は上がります。感情を100%表現できる単語の検索は困難極まるといいましたが、脳内の辞書(メンタル・レキシコン)に蓄える心情語の数が多ければ多いほど、物語文の読解において有利であることは疑いのない事実です。

 物語文のフレーム・ワークで、別に必要な観点は時間の流れです。文章を「右→左」に読むと「過去→現在→未来」という時の流れを刻みますが、その流れは不変ではありません。過去のあったできごとが現在の心情の原因になっている場合、つまり過去から現在向けての“時間数列”であれば、できごとと心情の因果関係を紡ぐのはさほど難解ではありません。

 しかし、その配置が逆転したらどうでしょう。時系列が反転した瞬間に、できごとと心情の因果関係のひもづけに脆弱さが露呈してきます。「回想」という時間軸の挿入がこれです。回想場面は、単なる時間による場面の区切れではなく、できごとと心情の因果関係の検索の際に障壁となって立ちはだかるものであるという理解が必要です。

物語を読むフレーム・ワーク(観点)事情把握、テーマとストーリー

 次に、他者理解の中核を成す「事情把握」です。他者を理解するということは、他者の語られない個人的事情を把握することに他なりません。一般的には「人物像」と称されるものですが、人物像として一人ひとりにピントを当ててみますと、そこにそれぞれの「事情」が見えてきます。各人物の物語はその事情に基づき、「【事情】→できごと→心情→描写(行動・態度・表情・セリフ・情景など)」と流れ、進行していきます。

 しかし、同じ「できごと」が「事情」の異なる二人にはまったく別な意味を持つ、といったことも物語にはよくあることなのです。同じできごとであれば、それが原因で発生する心情は同じかという、決してそうではないということです。

 しかも、このような他者のそれぞれの事情は、物語の全体に散在しています。この散在する事情を正確に検索し理解することが他者理解そのものなのです。物語を読むという意義も、実はそこにこそあります。

 「指導において、事情を抽出しながら、映像化・イメージ化して頭の中で描くよう誘導している」という話を耳にしたことがありますが、これは困難なことです。「大切なところがわからないから線が引けない」のに、「大切なところに線を引こう」と言うのと同じですから、事情が抽出できず、結果的に映像化・イメージ化はできないと思います。

 たとえば、小さな子どもたちにお母さんが絵本の読み聞かせをしている場面を想像してみてください。母さんといっしょに絵本を見ている子どもたちは、目と耳を使って絵本を読みます。すなわち、絵を目で見て「入力」(インプット)、言葉(音)を耳で聞いて「入力」しているのです。そして「認知」します。

 しかし、このままでは「分析」はできていません。ですから、お母さんは絵本から得られる情報を文字の読み書きができない子どもたちのためにナレーターとなってお話をするのです。大切なのはこの部分で、ナレーションとは「翻訳」であり「解釈」なのです。

 そのプロセスの中で子どもたちは、その助けを得ながら「思考回路」を形作るのです。「この名詞はどのように意味づけをしたらいいのか」「どのように結末を予想したらいいのか」「この気持ちの因果関係はどこにあるのか」「この動きはどのように解釈したらいいのか」「私は違うと思うのだが…」等々。

 このような「分析」は、お母さんのナレーション(翻訳・解釈)によって誘導されるもので、自然発生的にできるものではありません。これと同様に、物語文に散在する「事情」を映像化するといっても、お母さんの読み聞かせに相当するものを間にはさまないと、脳内に「思考回路」を作り出すことはそう簡単にはできないのです。

 フレーム・ワークの最後は、テーマとストーリーに関わる観点です。物語には、主人公たちが乗り越えていかなければならない“カベ”が必ずあります。邪魔者・敵・ライバルという形で登場することもあります。作者はさまざまなカベを設定し、トラブルを発生させて、主人公やそのパーティー(仲間)を必死にする場面を作ります。

 その“冒険”の中で、主人公は様々な葛藤を繰り返すことでしょう。この葛藤を抜け出したとき、信条が変化します。これが“成長”と称されるものです。過去の一時点で大切にしていた信条が、いつどのように変化していくかが物語全体の展開のカギを握っています。

 以上のようなPlan、つまり観点、あるいは“羅針盤”をあらかじめ準備して、読解という航海へ乗り出すべきなのです。そして、この“航海術”こそが、国語力です。いかなる読解の“海”へも進み出せる力であり、それは繰り返し使える“技術”なのです。

後編へつづく